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安心した状況では、本来の安心は生まれない

今年も「豊中まつり」が終了いたしました。
市民主体のまつりへとリニューアルされてから17年目、本当に多くの人に支えられ、愛されている市民フェスであると、またもや再認識さされました。

世代を超えて、来場されている皆さん、ボランティアとして関わっていただいている皆さん、そして行政、出店者、出演者・・・・・
毎年、そこには大きな笑顔があり

その笑顔をみると、自らも充実感が湧き出してくる
この笑顔が増え続けると、豊中のまちって素敵なまちになると思える

そして、この笑顔を守らなければとの強い決意のようなものも・・・・・

17年もやってると、何でも知っていると思われがちなのだけど

でも実は結構、一杯いっぱいな訳で
でも実は結構、不安を抱えている訳で

それは、みんな一緒だったりして

でも、これが大事だと思うんですよね
私は、安心した状況では、本来の安心は生まれないと自負しているのです。
常に課題を持つということは、不安で不安であれば、一杯いっぱいの努力をするのです。

そら多少のミスや思い違いは、いつだってあるのですよ。
でも大きなベクトルを共有しているもの同士にとって、それはカバーしあうことが大事で
私の役割はそのベクトルを共有してもらうということだと考えています。

それが、チーム「豊中まつり」

さてさて、今年もチーム「豊中まつり」として、動けたのでしょうか?

今年も、次年度へむけての調整がはじまるのです。。。。。。

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改めて思う「福祉住環境」

ながらくブログをアップしていなかった。
といううか、ブログの存在自体が私の頭から消去されていたといっても過言では無かったのです。

実は、この4月から「ワクワク」・「ドキドキ」するような事業が複数進みつつあるのです。
53才引退説など、どこ吹く風かとばかりに。(笑)

しかも・・・・・・


豊中まつりも間近に迫って参りまして・・・・・・


まあ、どんな事業なのかは、おいおいブログでアップして行くとしまして

実は数日前に、狭心症と思われる症状でぶっ倒れた訳なのです。
いや、本当に死ぬかなと思ってしまいまして

そんなこんなで、「自分にとっての一義的なものとは何か?」
なんてことを考えたりしてしまったのです。
となると、やっぱり福祉住環境と言われる世界かなと・・・・

本当に、ここ10年ほどの間に
「福祉住環境」といった言葉があちらこちらで聞かれるようになって
本当に大昔から関わってきた私にとっては、とてもとても違和感があるのです。

そもそも「福祉」とは
公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境。(デジタル大辞泉)
であり、生活上なんらかの支援や介助を必要とする人、経済的困窮者・ホームレスなどに対し、生活の質を維持・向上させるためのサービスを社会的に提供すること、あるいはそのための制度や設備を整備することが「社会福祉」たる意味であるとされている。

しかし「福祉住環境」で表現される「福祉」とは
「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味すると強く思う訳で、あらゆる全ての人の生き方の質を向上させる、まさしくQOLをの向上に他ならないと、私は確信しているのです。

あちらこちらで。QOLやらICFやらと叫ばれてはおりますが

現場では、なんのなんの
まだまだ・・・・・・・・・

特に、一番の疑問は
疾病や事故で何らかの障害を持ちました
そのマイナス部分を補うことで、なんとか以前の生活を取り戻すといった、ICIDH的な考えが福祉住環境の世界には多く残っているのです。
障害の部分だけを見た福祉住環境ではマイナス10がマイナス3にはなれてもプラスには絶対なれないわけで、そこにはこれからの人生の中で「しあわせ」や「ゆたかさ」を求めることが出来ない状況をつくりだしているに他ならないと思うのです。

すなわち「福祉住環境」では無いのです。

もちろんマイナス3で「しあわせ」や「ゆたかさ」を感じる方も沢山いるでしょう。
しかし、福祉住環境のプロフェッショナルとして関わる以上は、そこで価値観をシンクロさせるのは「逃げ」だと思うんですよね。


確かにその部分は0にはなれずとも、他の部分でプラス要素を向上させることで全体でみれば障害を持つ前の時よりも「しあわせ」や「ゆたかさ」が向上する。これこそが「福祉住環境」の持つ最大の意味だのです。そこに、空間とか、インテリアとか、光とか、カラーとか、素材とか・・・・建築士としての力量が発揮できるのです。(もちろん、それだけでも無いのですが)

それって、「ICF」の考え方。
福祉の世界では当たり前。

そう言ってのける方もおられるかもしれませんが

理論先行でその理論は現場では、まだまだ咀嚼されていないことを理解すると共に
人間の本質的なものが、プラスでなくマイナスに目をむけてしまい、そこに「大変やなぁ〜」という感情がはいる。そうなれば、なかなかプラス要素の話がしづらい事も十二分に理解しつつ考えていかねばならないと、強く思うのです。



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所詮、私の原動力は・・・

いや〜本当に久しぶりにブログアップ。
Facebookなるものを始めてから、どうしても発信がそちらよりになってしまっているのです。
http://www.facebook.com/kouji.yoshimura1

まあ、そんなことはさておき。
この4月から豊中市の提案公募型の協働事業制度で「豊中市市民活動情報サロン」の運営を私の関連している二つのNPO法人と岡町をベースにコミュニティカフェを展開されている一つの団体との協議体で受託しました。

「まあ、懲りもせず。」

と思われる方も、大勢いらっしゃるかと

でも、やっぱり。
今まで、自分が語り続けてきたことを「うそ」に終わらせたくないといいますか・・・・・

自分達の子供達に胸はって誇れる「我がまち」を継承したいといいますか・・・・・

それには「協働」に対するこだわりを捨てることの出来ない、自分がいるのです。



そら、当然のごとく。

協働でありながら、委託といった形しかない現状で・・・・・
しかも、情報サロンは庁舎外にあるのですが(阪急宝塚線豊中駅 北改札口すぐ)市役所の出張所的取り扱いなので規制も厳しく・・・・・
公平と平等の区別が出来ない現状でもあり・・・・・

市民側もガバナンス的な考えはまだまだ根付いていなく・・・
公共の丸投げ気質も残りつつ・・・・

苦労は覚悟の上!!!

そんなことで、ついつい。
事前打合せでも「熱」が入りすぎてしまうのです。

ぼちぼち「豊中まつり」も本格的になってくるし
コミュニティカフェ「CoCoKara」もばたばたと
国交省ケア連携の事業も最終局面

ましてや

4月からは、ちょいとばかり大きめの事業を考えたりしていまして・・・・

そんなおりに
「あなたは、何がやりたいの?」と妻からの素朴な質問。

「お前や家族を幸せにしたいんや。」と私・・・・

そう、そこなのですよ。
所詮、私の原動力は。



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「教育」のなかでは「罰」という考えがあってはならない

何なんだろうか?
ここしばらく、テレビやネットのニュースを見たり聞いたりする度に、イライラ感が募る。

まあ、AKBの問題はまったくの論外として(全く、バカバカしい。)

何度も書いているが桜宮高校の問題、女子柔道の問題・・・・・・・

テレビでは、いつもの如く
専門家と呼ばれる人達がコメンテーターとして出演
「記者会見の時に質問の仕方が悪いっていって、私があなた達を殴ったら・・・。」
「バレーボールのバレーって意味も知らないでバレーをやっていることが問題なんです。」
「金メダル至上主義が・・・・。」
「スポーツは勝つことだけが目的では無く・・・・。」

そんなことは、どうでもいいとは言いませんが
(いやいや、どうでもいいものもあります。)


私は、根本は
「出来なかった時に、なんらかの罰を与える。」のが教育では無く 「何故出来なかったかを一緒に考える。」のが教育である。

ここから考え直さなければ、今の問題は解決しないと思うのです。


スポーツの世界だけでなく、日本の場合は、罰則主義が教育の中にあったことは、まぎれもない事実であるとおもうんですよね。
日本一を目指して取り組む学生スポーツと日本一の学校に入りたくて取り組む勉強。
これも教育だと思うんです。

それを我が人生の道と決めて歩もうとしている訳ですから。
自分が評価を勝ち得ようとしたステージが違うだけでしょう。

しかし、問題なのは

教育そのものの中に、罰的考え方が残っていること
結局それが、体罰や暴力を誘発し、そしてそれを容認してしまうのかと思うのです。
そして、世の中では勝ち得た人間を褒め称えることが多い。(あくまでも、多いです。)

ようするに「教育」のなかでは「罰」という考えがあってはならない

これがプロフェッショナルとの大きな差なんだと思います。

赤点をとったから、課題を追加する。
試験が出来なかったから、留年する。
試合でミスをしたから、罰走としてグランドを走る。
練習に遅刻したから、チーム全員が腕立てをする。

これらのことは、規律をまもることの大事さ、二度目の失敗を防ぐ為の方法、一定の能力の獲得といった全てが自分の為であるということを本人も指導者も理解し、納得していない状態でおこなわれることに問題があると思うのです。

でも私は、その中で50年以上も生きてきたんです。

だから、少なくとも私はの自信が無い、それは多分、自分の歩んできた道を否定することが怖いからなんだと思います。
そして、それを肯定するために今行われていることを容認してしまう自分がいるのです。
(まったくもって、だめな奴ですは・・・・・・)
実は、それも大きな原因なんでしょうね。
本当に、考えさせられる、いやいや考えねばならないと強く感じています。

でも
桜宮高校の件と女子柔道の件
これと、内柴の件を一緒に論じることだけは絶対に許せないと思うんです。




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絶対にあってはいけないことは

難しい問題であるが故に。。。。。。

しかし、私個人として橋下市長の方向性には強い疑問を感じざるを得ない。
「教育とは。」と公で公人が言葉を発するのであれば、一義的に配慮すべき、考えるべきことを置き去りにしては絶対にいけないと思う。
今回の場合は、ご遺族、在校生、受験生に配慮し、寄りそった対応がなされるようにまずは、考えることが当然ではないのだろうか?

「ここは越えてはならないという、一線を教えるのが教育だ!!」

と大きな声で叫んでいるようであるが、果たしてそうなのだろうか?
全て、正義感と言う仮面をかぶって政局の具にしてしまう、その手法に私達、大阪の人間もぼちぼちNOと言うべきではないだろうか?


ご遺族のことを考えた時、胸が痛み、苦しい。
決して、当事者の方の気持ちがわかると言えば嘘になる、でもそこをわかる努力をしたいと思う。
その上で、何がベターなのかを考える。
息子が高校生のころ、よく似た境遇を経験しているものとしては
看板を掛け替えただけの決定に、ベストです等と胸はって言うなどとは、あきれはててしまう。

もちろん体罰を容認しているわけでは決して無い、言わば今回のことは体罰ではなく暴力であるとの考えには納得もできる。
徹底的にそういったことを排除せねばといった考えにも同意できる。
そのためには厳しい処分は当然であるとも思う。

しかし、絶対にあってはいけないことは
子供達に責任を負わせることではないだろうか?
子供達の夢をもぎとることではないだろうか?



これも、私は一種の暴力であるように思えてならない。


「じゃあ、どうすればいいんですか。代替案を出して下さい。」
と言われるかもしれない。


でも、それを一義的に配慮すべき、考えるべきことを踏まえた上で権力をふりかざすのではなく、
真剣に考えていくことが、まずは第一歩であるのではないだろうか?
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「気をゆるす」ことと「気を使う」こと

しかし・・・・・・
ちょっとばかり、愚痴らせていただきます。

何故故に
「気をゆるす」ことと「気を使う」ことの違いがわからない輩が多いのだ。。。。。。

私には、親友と呼べる人間は一人だけいる。
彼には、気をゆるしている。
しかし、他の友達以上に気も使う。
そして・・・・・・打算は皆無。

気を使うから、真剣に相手のことを考える。
気をゆるしているから、本音で話ができる。

これが当たり前であろうと思うのです。
そして、双方にその思いがあれば、信頼関係が構築され、こころ穏やかな環境が作れるわけである。

ようするに
これが「思いやり」

大切な存在であるが故に気を使うことになんの違和感も覚えない。
そして気をゆるしているから、共生できる。
妻にも、家族にも同じである。

それが親友やから気を使いたくない、家族にまで気を使いたくない。
なんてことを平気で言う
だから離婚も多いし、本当の親友も出来ない。

年末に久しぶりに里帰りをしてきた子供が

「折角帰ってきたんだから、家のこと手伝うよ。」
「いやいや、折角やからゆっくりしとき。」

どっちが後先でなく、この会話が大事なのである。

「おもてなしの心」も同じだと思う訳です。

やってもらったから、やる。

絶対にそうでは無いと言い切る!!

来ていただいてありがとう。

こっちである!!!

同じ時間を共有するのであれば、こころの底から
相手のことを考えて接することが大事なのである。
ようするに、気使いの問題である。

それが、自分の都合や価値観だけで。。。
まさしく「あしらう」といった場面に出くわす。(いや、出くわした。)

組織であれ、個人であれ。
互いの事をおもいやる気持ちが無いと、信頼関係はうまれない。

目の前の客人の水割り一杯作れない輩に「おもてなしの心」は感じない。
会場までのアクセスを気にも出来ない輩に「おもいやり」は感じない。
しかも、それが「仕事」でありながら。

まあ、すごく間接的に書いているので
多分、これを万が一読んだとしても、私が誰のことを考えているのかは当の本人はわかるよしもないでしょうが。(笑)

最後に、関係ないかもしれませんが。
特別な理由無く、子供を空港のANAラウンジなんかに連れて入っている親、グリーンに座らせている親、カウンターの鮨屋につれてきている親。
こういった、人にも私は「思いやり」や「おもてなしの心」は感じないんですがね

言い過ぎですか。。。。。。。(爆)
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おもてなしの極意

昨日、9月に堺で開店した後輩の料理屋に寄ってきた。
何かと忙しくて寄ることが出来なかったのだが、堺で久しぶりに呑むことがあり、夜の遅くではあったが開いているかなと突然、ぶらっと寄った訳である。

何の後輩かと言うと
別に出身校が一緒だとか、前の会社が一緒だとかでは無く
飲みにでた時には、帰りに一軒だけ一人で何処かの店に寄るのが好きで、そのおりによく行っていたキタ新地の料理屋の板前さんなのである。(この頃は、雇われの板さんでしたが)

いつも、終わりがけなので他のお客さんがはけた後に何かと話し込む習慣ができ
いつのまにか、10歳ほど年齢が上なので「先輩」なぞと呼ばれるようになってしまった訳である。

みょ〜な縁で
結婚の立会人までさしていただいた。

それからは、ほとんど
私が飲みたいときに、無理矢理でも誘うといった付き合い
誠、彼や奥方は嫌な顔一つせずに(本当のところは解りませんが(笑))付き合ってくれました。

ということは、私は迷惑だけかけてきたようなもんなのだが・・・・・

そんな彼から、自分の店を出したいので相談に乗ってくれと
ここは、一肌脱がなくては!

いろいろ話を聞いて内装スケッチを書き、料理を出す器のチョイスを手伝った。

そして彼が
「店の名前をつけてくれませんか。」

・・
・・・・・・

「おいおい、私でいいのか?」
 刹那!
「女房とも、先輩に名前つけてもらおうと決めてました。」と・・・・・
 
和の料理「真心(しんしん)」
素直に彼たちの事を考えた時に出てきた言葉である。


まあ、オープン直下は何かと忙しいだろうから、しばらくしてからのぞこうかと花だけを贈った。
そして、昨日。

11時過ぎに、突然のぞいたのだが、これがまだ満杯状態である。

まあ挨拶だけでもと考え入ると

「いらっしゃい、お待ちしてました。」
とカウンターのネタケースの前に一席に通してもらった
「タイミングよかった、一席空いてたんやね。」
といううと、
「先輩、何おしゃってるんですか。」

「いつも、飲んでる時に。「伊集院さんの言葉で
「鮨屋はどんな時でも一席があけておくものだ。店を育ててくれた客がいるだろう。」
ってのが、料理屋のおもてなしの極意やね。」って教えてくれてたじゃありませんか。」



いや〜、私をそこに通したら
本来の客が座るところがなくなるって。(笑)


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引き際の美学は、まっとうしたい。

53歳。

自らが、引いた自分のリセットラインである。
ついに、やってきやがった。

この一年間で、次なる動きへの準備と今までの動きの継承を・・・・

そんな中

今までの動きの大きな柱の一つとして12年間、活動してきた「福祉住環境ネットワーク会議」
12月1日にその12回目の全国大会が福島の地で開催された。

12年前、ひょんなことから
ネットワークづくりが始まった。

何しか、フェイスtoフェイスを心がけ
全国の色々な地域に飛び回った
「必要とされているな」と強く感じた地域もあった。
そうでない地域、利用価値の部分だけかかわろうとしている地域・・・・・もあった。

でも、そんなことはどうでもよかった。

自分に、どこでも必要とされる力があるわけも無いことは百も承知で
ただただ、一つでも多く地域、一人でも沢山の人間・・・・・・
これを引き合わせること
それが、次なる何かを必ず生む!


と信じて、



柄にも無く「ストレス」をためながら・・・・

そして12年経った今、
その役割もほぼ、終わったのかなと強く感じる。

ここ数年でそれぞれが、それぞれで動き出してきた。
また、地域の実情にあった活動が一定根付いてきた。


しかし、情けないかな。
自立した子供達を見るときの、嬉しさの反面の寂しさを感じている自分がいる。
子離れしなくては・・・・・・・

自分への、プライドとして。
引き際の美学は、まっとうしたい。

来年は福岡で開催される「福祉住環境ネットワーク会議」全国大会


それまでに


最後の仕事として

個々の地域が自立しつつあるが
会議体としては、当法人が事務局をやめるとまだまだ存在しがたい。
他地域が事務局を担える体制になることを目標に54歳になるまでの最後の一年間をまっとうして
いきたいと考えている。








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後3試合 [ラグビー]

後3試合。

3歳から始めたラグビー
最初は、「お兄ちゃんのラグビーについてくるなら、お前もやったら。」で始まった。

小学校の低学年までは、ラグビーといった形態は成していなかった。
そう、ボール争奪戦。(笑)
敵であれ、味方であれ、自分のボールが取られるのがいや!! てな感じ。

5年生位からかな
見てても、ラグビーらしくなってきた。
それぞれが、ポジションの役割を理解しだし。

「ワンフォアオール・オールフォアワン」

そんな、精神が根付きつつあった。
中学校以降は、以前にこのブログにアップした通り。

そして、後3試合。

今まで、一体何試合見てきたのだろうか?
毎週のように、全国のあらゆるラグビー場に出かけていった。
いや〜、楽しかった。

それが、後3試合。

彼や彼たちのプレーに一喜一憂し
共に悔しがり。
共に涙し。
共に喜んだ。

とうとう、後3試合。

彼のラグビー人生はどうであったのだろうか?
ワイワイと楽しんだ幼少期
躍動し続けた中学校時代
苦しみ抜いた高校時代

そして、なんか一番ラグビーを楽しんでいるよう感じる
この大学4年間。

最後の締めくくり。

この8番を私は、応援してきて本当によかった。

次は、男の同志として
あなたの人生を応援し続けるよ。

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「≒私達」の意見を形成することが大事 [日常]

コミュニティビジネスにおいて、私はスピード感を大切にしてきた。
今まで、多くのNPOの活動に参画してきたのだが大体がスピード感の無い団体と言うものは、事業の進展が見られること無く、消滅していくことが多い。

当然、法人である以上は定款や、それに定められている決議機関を経ていくことも必要である。
しかし、それはそもそも何のためにあるのかをよ〜く考えてみて欲しいと思うのである。

それは、組織の人間が「私」であり「私達」であることを認識するためのものである。

一つの事業で法人の生死をかけるような事柄
非常に賛否が分かれる事柄
等々を「私」の意見を「私達」の意見として認識するために議決をするのである。

ラグビーで一人がボールを持って相手に突っ込んだ時
誰しもが、何も考えずにフォローやオーバーに入る。
ここで躊躇は無い。
そして、後ろに控えしものが、その後のゲームの組み立てを考え繋ぐ。
これによって、チーム全体のスピード感が増し、流れが作れる。
これぞ、「私達」の考えが事前に浸透しているからである。

これと一緒であると思うのである。

誰かが、よかれと思って突き進もうとしている時
全体判断として、意見が分かれている場合は別として「私≒私達」の場合は、フォローやオーバーに無条件で入り、よりスピード感をだす。
そして、その動きを担保するために、ルールにあうようにフォローする。

こうすることで、コミュニティビジネスにおいて一番大事なモチベーションを維持し向上することが出来るのである。
私自身、コミュニティビジネスの一つであると考えている「豊中まつり」においても、ここが一番大事なところだと心して関わってきた。

しかし、ここがわかっちゃいないケースが多い。
何かにつけて、すぐに会議。
法人だからみんなの意見が。
定款上では・・・・・。

そうじゃなくて、すぐにオーバーやフォローに入れるように
事前に皆の意思疎通をはかり、大枠で「≒私達」の意見を形成することが大事なわけである。

すれば、スピード感でる!!

そう考えると
我が「NPO法人ゆにばっぷ」は凄いと自画自賛してしまうのである。
スピード感が、半端無い。
いや〜、本当に半端無い。

まあ、失敗だと判断したときの「撤退」のスピードも半端無いですが。(笑)


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