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Think back to豊中まつり(Episode2) [まつり]

第3回の豊中まつりを終え、2000年の豊中まつりへと向けてのスタートが切られたのは、1999年の11月。この年に、私自身は40歳となり青年会議所を卒業した。
まつりネット豊中という団体を作り、青年会議所の現役のメンバーや豊中市民を交えての実行委員長として最初の挑戦の年でもあった。
青年会議所としても、今までのように担当委員会の所属メンバーが関わるというのではなく、市民として関わり、そのバックボーンが青年会議所であるという形で進めた。
これを青年会議所的には市民への移管と言うそうだが、私自身は、そもそも青年会議所が主催している事業では無いのだから今一ピンとはこない。
誰もが、豊中まつりに興味を持てば、個人でも、どこの団体に所属していようと、市民として主体的に関われる受け皿を作ったに過ぎなかった。
現在のNPO法人ラブとよネットの原型が出来た年でもあった。

そして、豊中まつり2000において来場者が10万人を超えることになる。

実は、自分のキャパを超えるイベントとなり、内心「えらいことになってしまった。」と感じていた。
ここから、今まではコンテンツに重きを置きながら自分自身動いてきたのだが、今では口を開くと言葉にする
「安心・安全」を第一義的に考えるようになり、コンテンツ部分は各部会の皆さんにお任せをするという考え方に変えた。
この年から、まつり終わりに感じることが、「感動」から徐々に「安堵」へと変化していくのである。
以降、第5回(2001年) 18万3千人、第6回(2002年) 27万1千人、第7回(2003年) 21万5千人と巨大なイベントとして成長していくことになる。

そして2012年、豊中まつりを中心に「I LOVE TOYONAKA」な市民を増やそうとの思いでNPO法人ラブとよネットが設立され、豊中市とパートナーシップ協定を結び豊中まつりの運営をNPOが担う体制が出来上がった。
市民主体型のまつりを目指し豊中まつりを見直してから、15年目の年であった。

2009年からは、会場を豊島公園での単独開催としたために、昨年までの来場者数は15万人前後となっているが、人口密度的には複数場所での開催をしていたときよりは増していると感じている。
2日間、昼から夜まで様々なテーマでステージが有り、アルコールも振る舞う・・・・・
やんちゃな若者もやってくる・・・・
大きな事故や事件が起きないのは奇跡的なことだと思う。
(小さな事は、起こっていますが・・・・)

会場を回っていて思うことがある。
来場者も出店者も出演者も運営側の人間も本当に楽しんでいるなと
そして、みんな豊中まつりという場で再会し、出会い、集まり・・・・・
豊中で縁とゆかりを作ろうとした35年前、多分こんな場は無かったような(私が知らなかっただけかもしれませんが。)
みんなが豊中まつりを愛し、豊中のまちを愛しているような気がする。
そう、これこそが安心・安全のベースなのだと思う。

そんな場作りに20年以上も関わらせて頂いたことに感謝しか無いと強く思うのである。

そんな豊中まつりに対しての想いを次回は書き連ねたい。


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Think back to豊中まつり(Episode1) [まつり]

今年、22年間関わり続け「It's my life.」と言っても過言ではなかった「豊中まつり」の実行委員長を退任した。とは言え、まだまだ引き継ぎ等があるので会議などには参加している訳で、もう少し先にならないと実感はわかないのかと思う。
それにしても、長かった。
そもそも、勤めていた会社をやめ、この豊中の地で自らが起業し生きていこうと決意したのが24歳の時。
そのころは何にも無く、しかも結婚もしていた。
今考えれば、なんと無謀な・・・
文句も言わず、ついてきてくれた妻には感謝しか無い。
父親の仕事の手伝いをしながら、試行錯誤しやはり、福祉関連の建築士になろうと心に決めたのが25歳。
我が人生の中でひたすら勉強を頑張ったといえるのは、ここからの5年間。
30歳で念願の一級建築士を取得し「よし、これからや!」
・・・・・・・・・と意気込むも
その頃はあまり注目もされていなかった福祉関連の建築。
そんな分野の仕事なんて、ほぼ無かった。

しかも、この豊中は縁もゆかりもないまち。

ならば、縁とゆかりをまず作ろうと思い立って
青年会議所に入った。
がむしゃらに活動し、食うための仕事をし
青年会議所の先輩方にいっぱい助けられ
縁とゆかりが徐々にできあがってきた頃

「豊中まつり」と出会う訳である。

最初は、不信感しかなかった。
青年会議所のメンバーとして見直し検討会議に参加したとき
「何や、結局は行政の人達がやるんや。」
「よくある市民主体を演じるために会議には様々な団体を巻き込んでおくというやり方か。」と
しかも、プロが入っておりほとんど形は出来ている。

「何を言っても無駄やん。」

であれば、「2回目からは、企画段階から参画させて下さい。」とお願いし、今回我々に何を求めているかを教えてもらい、それを全うした。
第一回の豊中まつりでの事である。
確か、駐輪場の整理をしわらび餅やかち割氷を売っていたと記憶している。

しかし、その時、参加されていた行政メンバーやプロデューサーが何か他と違うといった感覚があったのも事実であり、その興味が、私の以降の豊中まつりへの関わり方に大きく影響することになるとは、その時は思わなかった。

第一回が成功裏に終わり(多分・・・)、すぐさま第二回に向けての会議がはじまる。
約束通り、最初から関わらせて頂くことになり、青年会議所でも豊中まつりを担当する責任者となった。
会議に参加して間もなく、はっきりと他の行政の参加する事業と異なることがわかった。
普通は、実務担当課が主となって他の課はお手伝い程度なのだが、実務担当課では無く、いわば関係の無い課の人達が主となって進めている。しかも、最初は仕方ないが市民主体のものにしなければ、意味が無いといった方向性もブレが無い。
しかも、熱い・・・・・・・・

言わば、市民側の代表的な役割で参加している私にとって、中途半端に関わることは出来ないなと感じたわけである。
しかし、青年会議所としての参加であったために、任期は一年。
そこで、早くも腹をくくることになる。
「市民として参加しよう。」と
しかも、異例なことではあるが、そこから40歳で青年会議所を卒業するまでの間、ずっと「豊中まつり」担当となったのだ。

二回目をむかえるまでの一年間は、あっという間に過ぎた。
いろいろお手伝いをしながら、青年会議所では、いかに市民主体のものになるのかを担当メンバーと共に議論をかさねた。
しかし、この頃はまだ、市民と行政が一体となって進めているといった実感が無く、会議終わりでもそれぞれが別の場所で親交を深めていた。
二回目で忘れられない思い出は、ローズ球場でステージを組んでいた関係で、今ではまつり名物にもなっているステージの最後に繰り広げられるカチャーシーの時、マウンドには入れてはいけないとその回りを囲んで守っていたとき、思いっきり誰かに「邪魔や!!」との声のもと殴られたことを今でも鮮明に覚えている。

そして、第三回に向けてまたスタートするのである。

この頃から、会議の中でも積極的に発言するようになり、当時の青年会議所の理事長が豊中まつりの実行委員長を受けることになる。とはいっても、挨拶担当のようなもので、市民側の実務は私がほぼやっていたような・・・
笑い話のようであるが、当の実行委員長がまつり開催日には来なかったのである。(笑)
私の実行委員長生活の実質的開始の時であった。
そして、大きな動きがあった。
市の予算が半分になったのである。
プロとして関わってきたプロデューサーにも支払うお金が無い・・・・
しかし、全体を調整、監修するには必要な人材・・・・・・
そこで、ダメ元で
「我々にボランティアやから、これからは豊中市民の一人としてボランティアでやってよ。」と
すると、ほぼ二つ返事でOKであった。

この出来事が、行政やプロ側と市民側を一体にした。
以降は、どっちみち会議後に飲みに行くのなら、一緒に行こうとの話となり、現在でも続いている会議後の懇親会も始まった。これが実に効果があり、より深く話し合え、まつりに対しての様々な生産性が上がり始める、それと同時に行政や市民の枠を超えての繋がりが作られていくことになるのである。
そして、皆が口にした。
「市の予算が半分になったからこそ、より安心、安全でパワーアップしたまつりを作ろう!!」と

まさにピンチはチャンス
官民一体となった豊中まつり実行委員会が出来上がった。
そして、次の年から私自身が、「冠の委員長はいらん、芳村、プレイングマネージャーになれ。」
とのことで、正式に実行委員長となったのである。








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「悲しみ」という負のサプライズ

 先日、13年前にお父さんをクモ膜下出血で亡くされ、その後、お母さんの認知機能の低下が著しくなり、そこから10数年住環境のお手伝いをさせていただいている兄妹が、事務所に来られた。
お兄さんは仕事の関係で遠方におられ、大阪ではお母さんと妹さんの二人暮らし。
そんなこともあって、住環境だけでなく色々なお手伝いをしてきた関係である。

つい一週間前にも、近くによった時に伺った。
「おかげさまで、母もここ最近、本当に落ち着いていて、ほっとしているんですよ。」
別に、私自身、何をしたわけでも無いのだが・・・・

恐縮していると、お母さんが出てこられ
「やっちゃん、お帰り。」
そう、ここの家では、いつからか私は「やっちゃん」と呼ばれている。
最初は、妹さんも「やっちゃん」とは誰のことかわからなかったのだが、お母さんの話をよくよく聞くと
若かりし頃、お母さんはお父さんのことを「やっちゃん」と呼んでいたようだ。
このシチュエーションになれば、約1時間ほど、ただただ頷いてお母さんの話を聞く。
そして、100円をくれる。
「ハイライト、買っておいで。」と
その日もそうであった。
「ありがとう。」といって、家を出る。
妹さんが玄関まで出てきて、
「いつもすいません。でも芳村さんがおいでになった後、母はすこぶる機嫌がいいんですよ。」
そんな会話をかわして次の仕事の現場へと向かった。

そう、それが一週間前だ・・・・・

「二日前に母が亡くなりまして・・・・・。」
ふらっと、出て行った時に交通事故にあわれたらしい・・・・・・

刹那

私の驚きや悲しみも大きかったのだが
お二人の悲しみの表情がとてつもなく、
多分、色々な悲しみが二人の中にあるのであろう

「サプライズ」Surpriseこの言葉をよく耳にする。
日本では誰かを喜ばせるために、驚かせる行為や計画の意味でも使われる事が多い。
しかし、本来は「不意打ち」という意味であり、これは幸せなことばかりでは無い。

特に「悲しみ」という負のサプライズは、まったくもって突然にやってくる場合が多い。
喜びは受け入れやすい
しかし、覚悟の準備期間が無い「悲しみ」や「喪失」それを受容するには、時間がかかる。
後から、後からいろんなことがでてくる・・・・後悔、想い出・・・・


今私が感じ取っている、二人の悲しみはほんの一面であり、その一面だけを見ただけで、
なんの言葉をかけることができるのであろう。

私自身、負のサプライズがあった時
周りがいろんなこ言葉をかけてくれる
大変、ありがたいことなのだが、心のどこかで
「違うんだよな。」と思ってしまう。

その夜のお通夜、そして翌日のお葬式に参列させていただき
「私のできることがあれば、何なりとおしゃってください。」
とお二人にお伝えした。

我師 伊集院さんの
「いつも見守っていますから。」の言葉も添えて。













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「終わり方」を考える時間

Facebookでもあげたのだが、一冊の本を読み
今の自分の考えとあまりにもシンクロし、何年ぶりかにブログを書いてみようと思った。

今月の12日で57歳を迎える。
後3年で、俗に言う「還暦」というやつである。
まあ、世の中の平均寿命を考えれば、まだまだ生きることになるのだろうが、私の家系は男子は70歳くらいで亡くなっていることを考えると、こればっかりはわからない。
そんな年代になって、最近「生き方」を考えることから「終わり方」を考えることが多くなってきた。

自分がこの世に生を受けたことに、何らかの意味を残したく
どちらかといえば、猪突猛進型で自分の成功イメージをもって走ってきた人生であったのが、
自分がいない世界を生きるであろう「妻」、「子供たち」が少しでも「幸福」な人生を歩むことが出来るようにと考えるようになったのである。

また、自分がやってきたことに対しても・・・・・・

それは、自分の生きた「証」を残すといったものではなく




今、私は元気である。(多分・・・・・)
だからこそ今、考えたいと強く思う。

私の父は、とても元気であった。
ある日、人間ドッグで肺に影がみつかった
手術、抗がん剤とそこからの父の5年間は副作用との闘いであった

好きな鮎釣りも囲碁もゴルフもほとんどできず
ましてや、母親や子供たちのことを考える余裕も無く

それが「幸福」であったかどうか?

でも、生きたかったのだと思う
それは、「終わり方」を考える時間がなかったから。
そして、私は「生きて」欲しいと強く願った。


私は、最後まで自分らしく生き切りたいと思う。
そのために、自分がいない世界のことをきっちりと考えておきたい
そう「終わり方」である。

とはいっても、最後の最後には
「やっぱり、もう少し生きたい。」と思うのかもしれない。


いや、そうありたいとさえ思うのである。
それが「幸福」な人生であるから。


・・・・・
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今年の夏を終えて。

今年も夏が終わった。

かれこれ18年間
ずっと、「まつり」と共に私の夏は過ぎ去って行く。

今年は、沖縄市豊中市兄弟都市締結40周年ということもあり
いつもの二日間が三日間となった。

特に初日の「道ジュネー」は感慨深いものがあった。
17年前、沖縄市の中の町で初めて「道ジュネー」と出会った。
私は、「道ジュネー」の歴史的背景や文化等、まったく知らない
何をして、このやんちゃな若者がひたすら太鼓を打ち、踊り続けるのであろうか・・・・

ただ、ただ、その時に心に刻まれた魂の揺さぶり
それは、喜怒哀楽が混在したものであった。

豊中でやってみたい。
様々な人の魂が揺さぶられ、何かが始まる予感がする。

それから17年。
やっと、実現した。

何故かわからないが「涙」が止まらなかった。
多くの方にも参加いただけた。
形や色は違っても、何かを魂に刻み込めたはずである。

そんな夏をすぎて・・・・・・・

ぼちぼち、私の役割も終焉を迎えてきたように感じる。
体力的なものもあるのは事実であるが

今年は、沖縄市、豊中市その双方で大事な同志が天へと召された
二人とも歳は下なのだが、いつも何処かで頼っていた。

大変、寂しい・・・・・・・・

人間とは、弱いもであり
いつも意地と見栄と負けん気でバランスをとっているものだと考えている。
そのバランスがどうやらおかしくなってきた。

中でも、今までは、許容できたものが出来ない。

こうなると、人間は独裁に走る。
俯瞰力が無くなり、自分の考えがマジョリティであるように押さえつける。
結果、本来のマジョリティだけでなく他のマイノリティな意見までもが反映されなくなっていく。

刹那

結果は・・・・目に見えて明らかである。

秋にむけて、もうひと頑張りなのであるが
「まつり」たるもの
次なるステージへの階段をのぼる為には、何が必要かを考えて行きたいと強く思う。


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「福祉住環境サミット」へもう一踏ん張り

福祉住環境の世界に身を置いて30年。

学生の頃は、まさか自分がそんな仕事をするなんて思ってもみなかった。
学部は法学部法律学科。(とは言え、法律の勉強をした記憶はありませんが。)
それが、ひょんなことから・・・
専門職になるために、一級建築士の資格も取って・・・・・

最初のころは、
「珍しいことやってるな。」
「もっと、効率的なことがあるやろ。」とか・・・・・・

途中からは、
「先進的なことやっているね。」

私のやってること。
私の信念。
私のポリシー。

多少の形は変わったとしても
絶対にここ30年ぶれてない

「世のため人のため」などという高貴は思いでは無く
只ただ、「自分のため、家族のため」
そのためにには、回り全体が「生きる」ことを楽しまなけりゃ。
その為に、私は専門職として頑張るのです。

そんな私も54歳
53歳で引退するなんてことを豪語していたのですが、それもかなわず。

でも、30年振り返ってみると
自分や家族が「生きる」ことを楽しんできたのかな?
ってな疑問を持ったりする訳なのですよ。

「福祉住環境サミット」

これ、私的には私の集大成の事業でもあり、新たな

誰もが、歳を重ねることに不安を持つ
誰もが、死を現実のものとして認識する
そして、様々なステージで役を終えていく

結果

人生の終演を前に、自分の可能性をあきらめているのではないだろうか?
自分が自分であるための意味や意義は、命ある限り続いていくのですよ!

私は、あきらめたくない 私は、もがきたい
マイナスも認識しながら
プラスを目標に最後まで生きていきたいと強く、強く思うのです。

その気持ちが強ければ、強いほど
日本は活気に満ちあふれる

「福祉」はセーフティーネットの為だけに存在する言葉では無い
もっと豊かに、もっと自分らしく生きる為のものでもある

そんな原点に立ち戻り

福祉住環境のプロフェッショナルとして
「福祉住環境サミット」なるものを作り上げたいと・・・・
この場で、多くの人に「歳を重ねることが、楽しみになった。」と言わせてみたい!!
その為のあらゆる環境が、「福祉住環境」だと!!

もう一踏ん張り!

誰のため?
もちろん、自分が歳を重ねても「自分らしく」生きるためですよ。(笑)
ここは、絶対にぶれない。







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ネルソン・マンデラ氏の死で思う。


ネルソン・マンデラ氏は、南アフリカのアパルトヘイト・人種隔離政策に真っ向から立ち向かい、それの撤廃を求める激しい闘争の中で27年間に渡って投獄さながらも闘い続け、1990年に釈放後、1993年ノーベル平和賞を受賞し1994年には同国初の黒人大統領となった、誰もが知る世界的人物である。
人類史上、国家にこれほどの影響を与え、世界に勇気を与えた人間はいないのではないだろうか。

その氏が、先週木曜日、95歳で亡くなった。

悲しい・・・・・・・

私自身、多くの影響をうけた。

壁にぶちあたったり。
あきらめかけたり。
腐ってみたり。

そんな時に氏の言葉を思い出す。

「生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにある」 「勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ」 「達成するまでそれは不可能に見える」

氏から、発せられた言葉だけに「重み」がまったく違う。

そして、
「勇気とは、恐れを知らないことではなく、それを克服することだと学びました。勇敢な人とは恐怖を感じない人ではなく、恐怖を乗り越える人なのです。」

勇気を与えられ、そして、本当に少しづつではあるが、強くなれた。
心が折れる寸前で立ち上がれた。


『インビクタス/負けざる者たち』という映画があった
私の大好きなラグビーが題材の実話である。

当時南アフリカでは、ラグビーは白人もしくはある程度の地位を獲得した富裕層の行なうスポーツであるという印象が強く、ラグビーはルールが複雑であり、教育水準の低い貧困層の多い黒人の間では受け入れられていなかった。
そのようなことから、アパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは不人気なスポーツだった。

南アフリカラグビー代表のユニフォームは金と緑を基調としており、通称はスプリングボクスと呼ばれていたが、マンデラ政権誕生と代表チームの国際テストマッチでの連敗を機会に、黒人代表者たちがスポーツ協会での会議で、「チームカラーと愛称はアパルトヘイトの象徴である」との認識による変更を全会一致で決定する。
そのときマンデラが登場し、「今まで我々は白人たちに脅かされた。しかし我々は白人たちを協力する寛容の心で迎えるのだ」と会議参加者との意見の差異あるスピーチを行い、変更を阻止した。

その後、スプリングボクスの選手達がマンデラの意向で貧困地区の黒人の子どもたちにラグビーの指導を行ったりといった地道な活動を続け、国民のあいだでチームの人気が少しずつ高まり、自分たちの存在が国内のみならず世界的に注目されていることを知るに至った。

そして自国開催の1995年ラグビーワールドカップにおいて予想外の快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たす。新生南アフリカの象徴として見られるようになったスプリングボクスは、全南アフリカ国民が見守る中、強豪ニュージーランド代表オールブラックスとの決勝戦に臨む…。
(一部、wikipediaから転記)

といった内容である。

私見であるが
差別や偏見とは、マイノリティを否定することで、自らがマジョリティと同化し安心を求めることであると考えている。
要するに、人間としての弱さがそれらを生み出す。

でも、俯瞰してみれば。
結局、その行為自体もマイノリティとなることに気づくことで差別や偏見がなくなっていく。

氏曰く
「自分がどれほどその習慣に誇りを持っていようと、自分自身の習慣に照らして他者を断罪する権利は一切ないと思うようになった」

深い・・・・・・・・。

どこまでいってもマイノリティとマジョリティは存在するであろう
人間も、弱さは常に持ち合わせていくのであろう

氏の教えを肝にめいじながら
本当に微力ながら、氏が目指した世界の実現へ努力したいと強く感じた。




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さてさて、本日も「余市」まで行きつくことができますろうか

12月の声を聞くと
何かと、気ぜわしくなってくる。
それと同時に、「酒」なるものとの接点が増えてもくる。
(まあ、この時期でなくても常に一緒にいるようなものでありますが(笑))

私の場合、自分が「好む酒」なるものが、結構入れ替わる。

年初には、イタリアワインにはまり
そのワインにあう、イタリア料理をつくることにはまり

夏場には、高知は安芸の安芸虎「素」という自然発酵の濁り酒にどっぷりと
でもって、これを飲むための「切子」のぐい飲みを探しまわり
この酒には、「煮物」があうと思い込み、この料理を極めようと和食の店を歩き回った。

ただ、一年を通じて
やはり、最後に飲む「酒」はウイスキー・・・・・
中でも、シングルモルト
ピュアモルト(原料がモルトのみ)の中でも単一の蒸溜所でつくられたモルトウイスキー100%のもの。

これが、いい!

シングルモルトは蒸留所のある地名がそのまま商品名になっていることが多く
スコットランドのアイラ (Islay) 、アイランズ (Islands) 、キャンベルタウン (Campbeltown) 、ロウランド (Lowlands) 等、それぞれの地域で製法や香りなどに色があり有名なのです。

でも、私はニッカの「余市」が定番なのです。
シングルモルトを好む人にとっては、少し感覚が違うかもしれないのですが

そこそこしか、主張しない個性というか、味といううか
雪のなかで熟成されてきた、地域そのものという感じなのです。

だから


・・・・・一日の最後に、振り返って飲む酒には
・・・・・・・・・・ぴったりなのです。

楽しく、嬉しい時の酒
辛く、寂しい時の酒
何かに怒りを覚えた時の酒
真剣に議論を闘わせる時の酒

ではなく。

何も考えず、一日の終わりを噛みしめる時の酒として・・・
ええ感じや!!!

さてさて、本日も「余市」まで行きつくことができますろうか(笑)
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「福祉住環境サミット」への想い

24歳の時、あるきっかけで「福祉住環境」(その頃は、こんな言葉すら無かったですが。)に出会い。
天命を感じ、この世界に身を投じようと決めた。

あれから30年の月日が流れる。。。。。

果たして、自分はこの世界のプロフェッショナルとなり得たのか?
確かに、多くの案件とは出会い、失敗し、学び、成長してきた。

当初は、参考となるものもあまり無く
参考とできる事例も多くなかった

その中で、自分の経験値から導きだした考えを
様々な職種の皆さんとのディスカッションを経て、精度を高めてきた。

今、それが試される時にきているのではないだろうか・・・・と感じるのです。

社会で「福祉住環境」という言葉が一人歩きしだし
それは、狭義の「福祉」の中での住環境の分野と解釈されていることが多い
「福祉」なるもの、本来は「豊かさ」「自分らしさ」とかそういったもので有るべきで、そのベースとしてセーフティーネット的な「福祉施策」他、なるものがあるのが正しいと思う訳です。

治療的な世界だけでの住環境ではなく、人間としてより自分らしく生きうるための住環境、そのベースとしての治療的住環境。

でなけりゃ、将来は確実に福祉課題が増えますよね。
自分は嫌なのです。
歳を重ねる事が、楽しくないのは・・・・・・

しかし、今も昔も・・・・
ここを繋ぐことが難しいのです。

機能的に補填される以上に対象者の住環境を向上する提案は、対象者が決める以前に否定されるケースも少なくはないのです。
ハードとソフトの融合と言われながら、ソフトの中のルールでハードを利用するだけといったケースも、その逆もあるんですよね。

でもね、今の日本。
捨てたものじゃない。。。
全国には、「福祉住環境」=「自分らしく生き続けるための住環境」
と考え、そんな垣根をとっぱらって動いている団体や個人が沢山いるのです。

まさしく、私の想いとシンクロする。

そんな「考え」、「想い」、「理論」・・・・・・・・
一人でも多くの人たちと共有することから始める。
その場をつくる事が、まず自分のやるべきことだと強く思うのです。

でもって、
第一回「福祉住環境サミット」の開催なんです。
http://www.u-bappu.jp/index.php/2013/11/5339.html

沢山の皆さんとこの二日間で日本の未来に向けての指標を共有できることが出来ますように。
ぜひ皆様のご参加、お待ちしています。
*福祉住環境サミットチラシ表.jpg
*福祉住環境サミットチラシ裏面.jpg
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福祉住環境の世界に身を置く者として「感動」するのであります。

数日前に新聞広告で「ベッドの横に設置できるトイレ」と名をうったTOTOの新しい商品が提案されていた。今度のHCRに出展されるそうである。

「排泄の自立が人間最大の尊厳」という観点に基づき、要介護者の精神的負担の軽減を実現させること、介護者・要介護者双方の肉体的負担を軽減し、介護の質を向上させること、転倒リスクを減らすことなどを目的として開発されたらしい。

私はTOTOのまわしものではないのだが、商品自体には今後改良も必要なこともでてくるとは思うのだが、この開発目的が素晴らしい。
そもそも、持論ではあるが
人間が生きていくために絶対に必要なものの内「だべることは陽・だすことは陰」であると思う訳であります。
食事の介護は、年齢に関わらず体調の悪いとき、ケガをしたとき等でも受け入れることは出来るのですが、排泄に関しては、なかなか難しい。
それは介護する側もそうだと思うのです。

必要であるとわかっていながらでも、従来の家の間取りは、トイレは「どこかに空いたスペースに」との考えで、階段下にあったり、スペースも最小限であったりするわけで
ダイニングキッチンや」浴室とは、扱いが全く違ってきました。

「汚い」・「はずかしい」・「臭い」

この三つが「陰」へとおしやったのです。

しかし、「陰」であるが結えに
この部分が自立出来なくなった時のQOL低下は、おしてしるべし。

ここに、昔から着眼して事業展開をしてきたTOTOという会社
おかげで、世界で一番のトイレ環境が日本には出来上がった。

便器一つにしても、追随してきているメーカーはあるのだが
コンセプトが、「洗わなくてもいい」・「施工性がいい」・「安価」等々でこれでは、言い換えれば昔のトイレの考え方を払拭することには繋がらない。
ようするに、建築よりの考えなのである。

確かに、ビジネスで考えれば建築や健康な方よりの価値観での開発もとは思うのだが

それよりも、人間としての考えで事業を展開している。
そして、望まれるものより「ひとつ上」を目指そうとする

そんな、ところに私は福祉住環境の世界に身を置く者として「感動」するのであります。

様々なご意見、あろうかと思いますが。

あくまでも「持論」ですので、ご容赦お願い致します。



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